アフリカ熱帯森林帯に居住している狩猟採集民について紹介するページです。
アフリカ熱帯森林の狩猟採集民、”ポスト”狩猟採集民 アカ(Aka)人の社会と文化
アカの音楽
アカ社会の現況−開発と保護の狭間で New
このページは作成途中です。
Last updated: August 25, 2005
アフリカ熱帯森林の狩猟採集民、”ポスト”狩猟採集民
アフリカ熱帯森林の狩猟採集民集団の分布 (K. TAKEUCHI ,2000より)
地図上の民族集団名をクリックすると生活風景などの写真が現れます。
(Aka, Baka, Bongoのみ)
上の図のように、アフリカ中央部には狩猟採集を営む(営んでいた)さまざまな民族集団が分布していますが、現在では多くの集団は定住化政策などの影響を受けて、移動しながら狩猟採集活動をおこなうという生活のパターンを失うか、あるいは部分的に保っているだけです。主として農耕に頼って生計を立てている集団も少なくありません。このような集団は、厳密に言えば”ポスト”狩猟採集民と呼ぶべきでしょう。
狩猟採集という生活様式を比較的に維持しているのは、私が1988年から調査をおこなっている、コンゴ共和国北東部に居住するアカの人々です。そのアカにしても、1990年代半ばぐらいから、大規模商業伐採や国立公園の設立などの影響を受けて、生活様式は急激に変化しつつあります。
集団間の歴史的・系統的関係
アフリカ熱帯森林の狩猟採集民は、おしなべて短躯を身体的特徴とするために、俗に「ピグミー」と呼ばれてきました。集団が異なっても生活様式や物質文化に類似の点が多いので、日本人による狩猟採集社会研究では、諸集団をひとくくりにして「ピグミー系」狩猟採集民と表現することが多いのですが、しかし、諸集団間の歴史的関係について確実なことはまだ分かっていません。
近年、言語や遺伝学の側面から集団間の歴史的もしくは系統的関係を探ろうという試みがなされていますが、すべての集団を視野におさめる研究はまだあらわれていません。
一方、アフリカ熱帯森林帯の狩猟採集民集団は相互に関係はなく、それぞれ特定の農耕民集団から分岐して熱帯森林環境に適応して、類似の生活様式や物質文化を持つようになったと考える研究者もいます。この立場からは、「ピグミー」あるいは「ピグミー系」狩猟採集民というくくり方は妥当ではないということになります。
いずれにせよ、アフリカ熱帯森林に散在する狩猟採集民集団(もしくは”ポスト”狩猟採集民集団)の歴史的・系統的関係の解明はまだ残された大きな課題なのです。
クロスボウを持って
狩りにでかけるAka人の男性
K. TAKEUCHI,
1989木性蔓から水を取る
Baka人の男性たち
K. TAKEUCHI,
2003弓と矢筒を持つ
Bongo人の男性
K. TAKEUCHI,
2002
「ピグミー」という語の由来と使用について
アフリカ熱帯森林の狩猟採集民の低身長という身体的特徴は、成長ホルモンの一種であるインシュリン様成長因子が遺伝的に欠如していることによりますが、これは、熱帯森林環境への適応だと考えられています。我々日本人を含めて、ヒトの集団形質的な特徴は環境の影響を強く受けます。アフリカ熱帯森林の狩猟採集民集団が低身長という特徴を持つのは、熱帯森林という環境では身体の小型化が活動にとって適応的であることの結果にすぎず、形質的に異常である、あるいは病的であるというわけではまったくありません。
「ピグミー(Pygmy)」の語は、古代ギリシャ語で肘から拳までの長さ(約35cm)を表すPygmeという語に由来しています。ギリシャ神話では、背丈がそれぐらいの小さな人々をピグマイオイ(Pygmaioi)と呼び、彼らは、女神ヘラの化身(または女神ヘラに変身させられた人間)であるコウノトリとの戦いに1年の4分の1は費やしているとされます。
神話ではピグマイオイは人間ではなく、牡羊に化けることもできる超自然的な存在と描かれていますが、一方で、アリストテレスはピグマイオイは「ナイル川の源流の湖水地帯に住む」と記述していて、これは、古代エジプトの記録に拠ったのだと考えられています。
エジプト第六王朝(紀元前2500ー2400年頃)のフィオプス二世の署名入りの碑文には、自分が派遣した軍隊の指揮官に、「樹木の国から来た真正のコビト」、「霊地から来た神の踊り子であるコビト」を宮廷につれてくるように命令している文章が残されています。
ポリフォニー(多声音楽)を伴う躍動感溢れるダンスは、アフリカ熱帯森林の狩猟採集集団が共有している文化的特徴だと言ってよいのですが、おそらく、この記録こそが、アフリカ熱帯森林の狩猟採集民について残された最古の文字記録であると考えられています。
しかし、その後、ギリシャ時代を経て、西欧世界では、アフリカ中央部の森林帯に住む短躯の狩猟採集民は神話やお伽噺の世界の住人と化していき、じつに1873年にドイツの博物学者シェバインフルトが1870年にスーダン南部から現コンゴ民主共和国の北部を探検した際に7人の「アッカ」と自称する狩猟採集民と遭遇した記録が公表されるまで、実在する人々だとは考えられていなかったのです。
かつては、「ピグミー」が「矮小人種」と訳されることがありましたが、「ピグミー」という語には侮蔑的、差別的ニュアンスが含まれるという理由で、最近の日本の新聞ではこの語を使わなくなりました。合衆国の人類学界でも、同様の理由で「ピグミー」の語の使用を避ける傾向が強くなっています。
私は、差別的ニュアンスもさることながら、諸集団間の歴史的・系統的関係が明かでないこと、また、「ピグミー」という身体的特徴を表す語でさまざまな集団をひとくくりにすると、「平均身長がより低い集団ほどより”純粋”な”ピグミー”集団である」といった生物学主義的なトートロジーに陥る恐れがあるので、「ピグミー」という語の使用は避けて、総称としてはアフリカ熱帯森林帯の狩猟採集民集団と記述的に表現し、具体的な記載の際は個別の民族集団名(”アカ”や”バカ”など)を使用するようにしています。
固有言語の謎
アフリカ熱帯森林の狩猟採集民集団については、歴史的・系統的関係をはじめとして今でも分かっていないことがたくさんあるのですが、そのなかでも最大の謎は、どの集団も独自の言語を持たず、農耕民の言語を借用しているという点です。固有言語がどのような言語であったのか、またどうして喪われてしまったのかという問題は古くから注目されてきましたが、なかなか説得力のある説明はあらわれず、現在に至っています。最近ではフランスやベルギーの研究者が、語彙比較や、あるいは音声体系の比較から、いくつかの集団の共通祖語を類推していますが、まだ仮説の構築の段階で、今後の研究の進展を待たねばならないというのが現状です。
アカ(AKA)の社会と文化 概要 アカはアフリカ熱帯雨林に居住する狩猟採集民の一民族集団で、中央アフリカ南部からコンゴ共和国北東部、コンゴ民主共和国(旧ザイール)のウバンギ川東岸にかけての約7万平方qに居住分布し、人口は1万5千人から3万人と推定されている。 |
音楽 |
コンゴ共和国リクアラ州で 2004.3に収録した歌の例 再生するためには、Real Playerが必要です。ここから無償版がダウンロードできます。 音声ファイルのダウンロードは禁じます |
精霊ジェンギを囲んで踊る男女の歌声(その1) |
精霊ジェンギを囲んで踊る男女の歌声(その2) |
青年男女が輪をつくり、一人ずつその輪のなかに飛び出していって踊る "エランダ"というゲームの際の歌声 |
ハープ状の楽器(”クンデ”)の弾き語り |
音声ファイルの著作権は竹内潔にあり、ダウンロードを禁じます。 © 2005 Kiyoshi TAKEUCHI |
南部に広がる広大な湿地帯と国境沿いの「辺境」であるという地理的な事情から、長く外部からの強力なインパクトを蒙ることがなかった、アカが居住するコンゴ共和国北東部では、商業伐採がこの数年の間に劇的に拡張した。また、合衆国に本部を置く自然保護団体によって自然保護公園がアカの居住地帯の近隣に設立され、狩猟制限や獣肉(”ブッシュ・ミート”)の交易に対する規制が厳しくなってきている。 開発−商業伐採 コンゴ共和国はサハラ以南のアフリカで有数の産油国であるが、原油価格の低迷のため、1980年代から国際金融機関への負債が年々かさむという経済状況にある。世界銀行などは債務を返済するために商業伐採による外貨獲得を勧め、これにコンゴ政府が応じて、1980年代に国内の森林帯全域に伐採区画(UFA; Unites Forestieres Amenagement)を設定して、徐々に区画の伐採権を国外資本の伐採会社に売却するようになった。このような区画は、地域住民の権利や意向を無視して資源開発を利権化するという点で、植民地時代のコンセッション制に酷似している。1995年には、石油が輸出総額の87%を占めるのに対して、木材が9.8%と、外貨獲得の第2の資源となった。 さらに、商業伐採の浸透に拍車をかけたのが1997年に勃発し、2003年まで続いた内戦であった。1997年と1999年に内戦の影響、とりわけ南部森林帯の伐採操業への影響によって一時的に落ち込んだコンゴの木材生産量は、2000年から急激な増加に転じた。これは、1998年からSassou Nguesso大統領が反政府勢力との抗争に必要な資金を調達するために、精力的に北部森林帯の伐採区画(UFA)の伐採操業権を精力的に外国の木材企業に売り込んだためである。コンゴ北部では1730万haの森林のうち、890万haが湿地などに妨げられずに伐採可能と見なされていたが、1996年以前は210万haが伐採区画に指定されているだけであった。しかし、1996年になると、新たに5つの伐採区画が指定され、一挙に320万haの森が伐採対象に加わった。1998年以降、Nouabale-Ndoki国立公園と南部の大湿地帯であるLac Tele保護区とその周辺を除く14のすべての区画で大規模な伐採が開始され、いくつかの外資系の伐採会社が、共同で中央アフリカ共和国への木材搬出路網を縦横に整備しだしている。 私の調査地である中央アフリカに近いムンプトゥ村付近では、1995年に村から40キロあたりのところまで伐採路が切り開かれ、その末端に二〇〇人を越える伐採労働者の村が突如として出現した。こうして、外部から流入してきた労働者向けの獣肉の需要が生じたうえ、伐採路ができたおかげで最寄りの地方都市までの交通が容易になり、ムンプトゥ村周辺で獣肉が急速に商品化しだした。また、少数ではあるが、臨時雇いとして、伐採基地付近のアカが伐採労働者として雇用されるようになってきた。さらに、本格的な伐採はまだ始まっていないものの、地域開発という名目で村までの道路が建設された。
道路を伝って、商人や役人、自然保護団体、多くは地域外の出身である伐採労働者などが頻繁に村を訪れるようになり、アカとそれらの外部からの人々との接触も、おそらく彼らが歴史上経験したほどがないほど頻繁かつ直接的になった。ただし、ムンプトゥ村周辺での伐採は村への道路建設を除けばまだ行われておらず、2004年3月の調査の段階では、いくらかのアカが自然保護団体の管理事務所がある村や伐採基地の町に転出していたものの、アカの生活は基本的にはそれほど変化していなかった。 しかし、現金獲得の機会を求めて青年・壮年層の農耕民が大量に伐採基地やその周辺に転出し、それらの農耕民と擬制的親族関係を通じた経済的関係を持っていたアカたちが雑用と引き換えに農作物を確保するためにムンプトゥ村に半定住するようになり、銃猟の報酬や性的関係を巡って、農耕民との軋轢が目立つようになっている。 一方、このまま商業伐採が進行すると、択伐とは言え、伐採進行中の森林内の居住や狩猟採集活動は事実上不可能であるから、野生動植物との文化的関係が断ち切られ、同時にますます商業経済が浸透して、生活集団を横断する協業である狩猟活動や分かちあいの社会関係の変質が進行し、さらに農耕民との「排除を通した相互依存」の関係も弱化して、熱帯森林と深く結びつき、地域の民族間関係のなかで存立してきた民族的アイデンティティの揺らぎが生じて、現金経済の浸透のなかで、最下層労働者層や零細農耕民化して、民族集団としての紐帯を喪っていく可能性が高い※1。また、食糧の「分かちあい」をとおして、個人の自由度の高い平等的な社会をつくってきたアカは、政治的凝縮力が皆無といってよく、マイノリティとしての自己覚醒を契機として「先住民」としての権利を主張していくということも考えにくい。アカは彼らが創りあげてきた森の文化とともに、民族集団としての存亡の危機に立っていると言ってよい。※2 ※1 1999年に中央アフリカ共和国の、古くから商業伐採が進行した地域で調査をおこなったが、この地域では日雇い労働者層や農耕民化したアカと残存した森林での狩猟採集生活を維持しているアカに分化して、前者は後者を農耕民がアカを呼ぶのに使う侮蔑的ニュアンスを持つ他称で言及する。 ※2 アカ人の社会文化や農耕民との関係についての詳細は、「調査テーマと成果」のページを参照ください。 「森を見て人を見ない」開発と保護と政府のトライアングル コンゴ北部で伐採対象となっていないのは、前述の通り、二つの自然保護地区だけである。土地登記制度が熱帯森林帯には適用されなかったため、コンゴ国のすべての熱帯森林は政府の所有であり、政府の裁量で伐採権を売却することができる。1990年代初めから合衆国の自然保護団体がコンゴ政府と伐採会社に働きかけて、1993年にモタバ川最上流部から隣国の中央アフリカ共和国との国境までの地域の伐採権を買い取って、ヌアバレ・ンドキ国立公園を設立した。 公園設立の背景には、ヨーロッパ系の伐採会社もコンゴ政府も欧米で高まった自然保護の風潮を無視するわけにはいかず、むしろ公園設立に協力することによって、自然保護理念を尊重していることをアピールできるという目論見があったと考えられる。 一方、自然保護団体も、商業伐採がいわゆる「発展途上国」の「近代化」に必要な開発手段だと認識している。また、公園を維持するためには周囲の森林の伐採権を握っている伐採会社の協力が不可欠である。このような密接な関係を象徴するかのように、ヌアバレ・ンドキ国立公園を管理する自然保護団体のオフィスは首都ブラザビルの伐採会社の敷地内の一角を借りて設けられている。 さらに、石油収入の減収で伐採会社からの収入が不可欠となっているうえに、やはり欧米の自然保護世論にも配慮しなければならないコンゴ国の政府にとっても、伐採会社と自然保護団体の協調は好ましいし、首都で職にあぶれている政府高官の親族やエリート層を伐採会社や自然保護団体の職員として送り込むこともできる。 こうして、自然保護団体、伐採会社、コンゴ政府のトライアングルの協力体制が成立しているのである。ただし、アカ人はもとより、現地に居住する農耕民ものトライアングルの蚊帳の外に置かれている。自然保護団体や伐採会社は、管理労働者や伐採労働者として、すでに伐採作業や保護ガイドなどの経験を持つ地域外の人間や隣国中央アフリカの人間を多く雇って、地元の人間はごくわずかしか雇わない。まして、識字できず、賃労働という労働形態に慣れないアカは、せいぜい、ガイドやポーターなどの臨時雇いで雇用されるぐらいである。 開発は希少な有用樹種を資源として利用し、自然保護は希少な動物種を保護するが、どちらも「希少性」という外部の価値観を地域の住民に押しつけようとする。自然保護団体はアカたちに希少動物の保護を熱心に啓蒙しようとするが、森林と深く結びついたアカの文化や価値観には関心を示さない。 また、商業伐採の規模が大きくなると、伐採労働者とその家族、商人など外部からの流入人口が急激に増える。たとえば、1990年に人口約400人であったムンプトゥ村から100キロほど下流のエニェレは、伐採区画が増えるに連れて人口が増加し、2004年現在で二千人近い人口を抱えるようになっている。そうすると、獣肉(ブッシュ・ミート)の需要が一挙に高まって、獣肉が商品化し、現金獲得を求めて過剰な狩猟圧が野生動物にかかることになる。また、伐採路が整備されたことで交通の便がよくなり、最寄りの地方都市まで獣肉を運搬できるようになると外部からの密猟者も多くなる。1996年当時の調査では、まさにそのような傾向が顕著で、ムンプトゥ村の農耕民たちはアカを叱咤して銃猟で獣肉を獲得して、伐採労働者に売っていた。しかし、ヌアバレ・ンドキ公園の中でも密猟が頻繁におこなわれるようになると、自然保護団体がコンゴ政府と伐採会社に働きかけて、コンゴ政府は散弾銃による銃猟と獣肉の売買の厳しい監視と規制を実施するようになり、伐採会社は労働者が獣肉を買うことを禁じるようになった。ただし、獣肉と現金の双方が入手しにくくなった農耕民の不満は大きい。 獣肉が商品化し、狩猟圧が過剰になったという事態は、そもそも伐採によって地域に人口が流入し、伐採路が切り開かれたことによって引き起こされたものである。しかし、伐採会社やコンゴ政府はもちろん、自然保護団体も商業伐採の拡大を懸念しようとはしない。まして、伐採や商業経済の無秩序な流入によってアカの社会が混乱するといった事態については一顧だにしない。 端的に言えば、森林を動物や樹木の希少性の観点からしか捉えない立場からは、森林に住む人間とその生活は視野の外に置かれるのである。 |